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【読書記録】中島義道『差別感情の哲学』(講談社学術文庫)

下記は、中島義道『差別感情の哲学』(講談社学術文庫)についての読書記録である。「→」から先は基本的にメモ者の感想となっている。

いくらかチェリーピッキングである点は否めないが、どうかご寛赦いただきたい。また、いずれも完全な引用ではない。

メモ

①動物行動科学者のローレンツ(Konrad Zacharias Lorenz)曰く、人間のみが文化を有するが、文化の淵源を人間のみが「種内攻撃」するところに求める。つまり、地上の動物が「高級」になればなるほど、集団や個体の差異に敏感になり、ある集団や個体を好んだり別の集団や個体を嫌ったりするのだという。

→たしかにこれはメモ者の実感にも合致する。「高級」であるサルには群れの中にヒエラルキーがあるとされているし、「高級」でないアリには(女王アリを除き)ヒエラルキーはないように思える。

 

②中河伸俊曰く、現に自分が得をしている場合においては、好むと好まざると拘らず、自分が得をしているということを認めなくてはならないという。つまり、仮に己がその差別を「区別」だと思っていたとしても、決して区別であると認めてはならないそうだ。

→本書の最初10%くらいのところで登場した引用であるが、すでに中河の主張が、筆者の結論の一側面(の変奏)になっているように思う。というのは、筆者は最終的に「すべての行動に差別が含まれていることを常に自覚せよ」と述べているが、ここに「得をしている側が」という制限を加えれば、かなり中河の主張に近づくからだ。

 

③逆差別にも注意が必要である。非権力者が権力に立ち向かい自らの理念を実現するために、それ自身権力を持つ必要がある(さもなくば対抗できない)。さらに「復讐」という色彩が強烈な場合、この逆差別は暴力をも正当化しかねない。

→この点には強く賛同する。まさにメモ者が「某思想ムーブメント」に対して思っていたことと同じである。当該ムーブメントにおいては「我々は抑圧されている!」という主張がしばしば攻撃的な言説をもって展開されているし、このムーブメントに対して異論を投げようものなら「人権思想を知らない奴」というレッテルを貼られてしまう。まさに暴力性・権力性を伴ってきているではないか。

 

④被差別の抑圧感は、差別する人々が建前上のルールを受け入れつつ、しかもそれを無視しているという不当感を源泉としている。

→「差別」という概念を定義するのに資するものだと感じた。「建前上のルールが受容されている」「ルールが無視されている」という2つの要件により「被差別の抑圧感」が成立するということだろう。であれば、差別を解消するためには、建前上のルールをいくら弄ったところで限界があるということが導かれる。

 

ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan)が「欲望とは他人の欲望である」と述べたが、特定の社会において、プラスの価値とマイナスの価値(いずれも動的なものだが)は客観的に決まっているという。つまり「この不快感は私個人が抱いているものだ」と主張したところで、その源泉には「社会的な価値観」が存在するのだ。

 

⑥「差別感情」を「ある社会的劣位グループの構成員を、その構成員であるがゆえに一律に不快に思う感情」と定義する見解がある。そして特定の集団(被差別部落出身者や浮浪者等)=公認された被差別者に対しては、不快の表出を抑えるべきだというのが、現代日本での暗黙の前提であり、これに従わねば社会的に葬り去られる。

→先日、あるインフルエンサーが「ホームレスは無価値」というようなことを述べて大炎上していたし、相模原にある津久井やまゆり園の事件では、被告の行動もさることながら、その思想も大きな波紋を呼んでいた。

 

⑦あまりにも社会的コンセンサスに合致した行為をするならば、自分の誠実性(思わず被差別者を避けてしまう等の「気持ち」に従うこと)がダメージを負う。かといって自分の誠実性を守ろうとすると、社会的に排除される。

→筆者も本書にて、このジレンマともいうべき現象に悩んでいた。

 

⑧生物体としての人間の基本的欲求(自分の眼で見たい、自分の足で歩きたい等)をA群とし、社会的存在としての人間の基本的欲求(定職があるほうが良い、肉体的に魅力があるほうが良い等)をB群とする。

ここで「文化としての障害」という概念を考える。これは「身体障害者であることを恥じたり卑下したりすることなく、同じ誇りをもって生きたい。つまり障害は「文化」なのだ。

しかし筆者はこの点について懐疑的である。障害も一つの固有な文化として扱われるべきなのかもしれないが、対等な文化であるわけではないという。これらを完全に対等な文化として扱い水平化するのは、欺瞞的である。

→この区分法は、かなり思考の役に立ちそうである。と同時に、A群は「0か1か」の要素が強く、B群は「グラデーション」の要素が強そうだとも感じる……が、本当にそうだろうか。このあたりはさらなる検討を要する&この発見の活用法についても熟慮が必要である。

 

⑨嫌悪は能動的感情であり、「個別の不快感とは別に、個々の不快感に回収されないもの」として、恒久性・超越的統一性を持っている。

 

⑩事実に基づかない差別感情は、事実に基づかないからこそ教育で変えることができ、あるいは自然に解消する可能性もある。かかる意味で、差別語をヒステリックなほど禁止するのには意味がある。

 

⑪ゴフマン(Erving Goffman)が「儀礼的無関心(civil inattention)と呼ぶ概念は、「絶えず互いに『正常である』というサインを発しつつ、その正常値を認知しあった関係を維持したまま互いに無関心を装う態度」である。ここに投げ込まれている自己を、薄井明は「市民的自己」と呼んでいる。この市民的自己は、ひとたび自然でない人を見つけると、「まともでない人」という烙印を押し、「異常者」として扱う。

差別感情としての嫌悪が強い人というのは、「正常と思われたい欲求」が強く、「儀礼的無関心」を装いつつも自分の周囲に異常な人を嗅ぎ付け、括り出し、告発する人である。つまり、与えられた状況に敏感な人こそ、かかる人になりがちである。

 

⑫その社会における価値観とぴったり一致して差別に怒りを覚える人は、どこまでも「正しい」と評価される。だからこそ自己批判的にならねばならない。自らが正義の側におり、その正義が侵害されたとなれば、加害者を徹底的に打ちのめして良いという思想を持つ人間もいる。

→ほとんど③と同じことを言っているか。

 

⑬差別問題が空転する理由を、筆者は「からだで考えることを拒否し想像力の欠如した輩が繁茂しているから」「彼らは、いかに頭で差別問題を『知って』いても、自分は安全地帯にいると思い込み、自分は永久に被差別者になることはないと高を括っている」としている。

→この点については疑問を投げかけたい。というのも「自分が〇〇の分野では被差別者側の人間だ」と強く自覚するあまり、××の分野において自分が差別をしていることに無関心になっている人間もいるからだ。想像力の欠如は「私は差別されない」と高を括っていることに起因するのではなく「私は差別していない」という誤った信念によるものではなかろうか。

もっとも、ひとりの人間があらゆる差別に対して等しく憤ることは不可能であるから、上のような人物を「それはけしからん」と責めるのは、少々理不尽なのかもしれない。とはいえ、「〇〇平等」ならともかく「人類皆平等」を彼らが唱えることについては違和感を抱かざるを得ないが。

……あるいは、〇〇平等がもし歪んだ形で「正義」を手に入れてしまった場合は、「自己批判ができない(正義を疑うのは異端だから)」「外部から攻撃を受ける→より躍起になって正義を振りかざしたくなる」という負のスパイラルに陥ることも考えられる。

 

⑭「我々は他人から(理不尽に)嫌われることに対する抵抗力を身につけねばならず、そうした抵抗力のある者だけが、現実的に差別感情に立ち向かうことができる」

→この部分についても疑問を抱く。「差別感情に立ち向かう」の定義が曖昧であり、かつ「できる」というのは「may」なのか「can」なのかもわからないからである。要検討。

 

⑮軽蔑とは、他人における意志がわれわれよりも極めて劣っていて、我々に対しては善も悪もなしえないと判断し、その意志を軽視しようとすることである。ここに「我々が啓蒙してやろう」という気持ちが加われば、近代的平等主義と過酷な植民地支配が両立してしまう。

 

⑯差別に対して憤慨し強く抗議するなど、全身を社会のトーンと完全に同じ色に染め上げている人間を「硬い差別反対運動者」と筆者は述べている。かかる人間はあまりにも時代の潮流に沿った「善良な市民」であり、その限り同じ危険を内包しているという。

 

⑰「現代日本では上位者から下位者への軽蔑が厳しく統制されているからこそ、社会的価値において下位者から上位者への軽蔑のみが表面に出てきている」

→これにより、上位者・下位者の権力構造が完全に逆転してしまうのではないかと感じる。下位者は正義という権力を振り回すことができるが、上位者は下位者から何らかの攻撃を受けても、一切反撃ができないからである。

 

⑱心理学における「投影」とは、自分のうちに潜む悪を他人に投影し、次に「その人が悪い」と判断することで、自らは罪責感から逃れようとする運動であるそうだ。

 

⑲「国や民族や故郷や家族や出身校をごく自然に愛するところに差別感情の萌芽がある。いや、その最も深い根っこがあるのだ」/役割の束にこそその者のアイデンティティがあり、その束こそがアイデンティティなのだという。

→これは果たして真なのだろうか。「自分と同じ意見を持っている人間は仲間」「違う意見を持っている人間は敵」というタイプの人間を少なからず目にするが、これは「相手の属性ではなく意見によって”自然に愛する”か否かが決まっている」といえるため、これらの文とはかなり趣を異にしているように思える。

 

⑳「差別的まなざしにおいては、それを『向ける者』と『向けられる者』とが交換不能な形で配置される。まなざしを向けられた者が同じまなざしを向け返せないとき、まなざしの『差別が完成する』のである」/まなざしとともに、意味づけを受け入れよと迫ってくる。そうして被差別者に「内面化」されてしまうという。

→この差別観もかなり優れているのではないだろうか。

 

㉑パレーシア(παρρησία)とは、あえて他者が好まない事柄を隠さず直言するというもの。真理を言わずに沈黙することに耐えられないというのは、自己に真摯でありたいという道徳的動機によるものが多いという。しかし、その「真理」は本当に「真理」であろうか。どんなに本人が確信していても、どんなに同時代人がこぞって同意していても、結局それが真実なのか信仰なのかはわからない。