よめないかるたの百面相

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【読書記録】足利健亮『地図から読む歴史』(講談社学術文庫)

下記は、足利健亮『地図から読む歴史』(講談社学術文庫)についての読書記録である。個人的に「面白い」「何かの役に立ちそうだ」という知見を、ごく簡単にまとめていく。

あくまでメモ者の目に引っかかったポイントを記載しているのであって、本書のメインとなる主張とはズレている可能性があることをあらかじめお断りしておきたい。

佳字について

縁起の良い字を「佳字」と呼ぶ。たとえば長寿を現す「鶴」「亀」「松」などがその例だ。 筆者によれば、佳字を地名や山の名前に使うのは中世末から近世に、特に城下町で流行したムーブメントだという。

地名が伝わる際の形態

メモ者の実感と一致することだが、やはり地名は音として伝えられることが多く、用字自体はさまざまに変わるのが普通のことなのだ。

「国」の数

国は飛鳥時代から奈良時代へ、分割などで次第に増加。平安時代には68か国の安定状態が続いたという。これが明治時代に再編成されて府県になった。

さて、古代から中世のある時期までは、国の行政をつかさどった役所は「国衙」「国府」「府中」「国庁」と呼ばれたという。 メモ者がすぐに思いついた関連地名は「東京都府中市」「神奈川県小田原市国府津こうづ」であった(最近知った難読地名「大阪府中河内郡孔舎衙くさか村」にも「衙」の字が用いられているが、これは単純に音を当てたの可能性もあるので、国衙との関連性は疑うべきだろう)。

筆者は三重県伊賀市坂之下国町こくっちょも「国庁」に通ずるとしている。

大阪府中河内郡孔舎衙村は1955年に合併により枚岡市になり、その枚岡市も1967年に合併して東大阪市となっている。

駅家

古代の主要道路には、原則30里(約16km)ごとに「駅家うまや」が設けられたいた。それゆえ古代の主要道路は駅路(うまやじ/えきろ)と呼ばれていたという。

織田信長安土城

信長が尾張・美濃一帯を制する拠点として金華山稲葉山因幡山)を選んだ理由として、地理的観点から2つのことが言えるという。

(1)金華山は目立つ。濃尾部屋のどこからでも際立って見えるし、山頂からは平野全体を睥睨できる。

(2)沢彦たくげん和尚が地名を「岐阜」と改めるアイデアを出したこと。かねてより「義婦山」という名とそれに因む地名伝説があったことに加え(『美濃国風土記』)、中国陝西省「岐山」の故事から「岐阜(阜:丘の意)」という名を提案したのだろうという。

さらに筆者は「観音寺山でなく金華山にした理由」として、「肉眼や狼煙での連絡のつけやすさ」「一斉放火されにくく、仮にされても脱出しやすい」という2つの仮答と提示している。

乙訓寺の話

京都府長岡京市今里にある「乙訓おとくに寺」の由来は『古事記』『日本書紀』の記載が参考になる。

垂仁天皇の初めの皇后は、兄に唆されて謀反の心を抱くが、その心が発覚して自殺する。その皇后の「死に際して自分の代わりに丹波の美女を呼び寄せるように」との遺言の通り、垂仁天皇はのちに女性を後宮に召す。しかし、長女は美しいものの、妹2名は非常に醜かった。垂仁天皇は妹2名は娶らずに元の国に送り届けたが、恥ずかしさのあまり1名は「樹の枝に取りさがりて」(メモ者注:首吊りのこと?)死んでしまった。そこで「懸木さがりき」から「相楽」という地名ができた。もう片方の妹は深い淵に堕ちて死んでしまった。そこで「堕国おちくに」から「弟国」という地名になったという。

「乙訓」はその音から来ているのだろう。

唐櫃越の話

唐櫃越からとごえは、京都府京都市西京区山田と亀岡市篠町山本の間にある道のこと。1336年の資料に「賀羅富津越」という地名が見え、そこから「からふとごえ」→「からとごえ」となったと推測される。用字については、一人ずつ縦列でないと通れず、唐櫃(上面中央に通して棒で吊り下げ、前後の二人が棒を担いで運ぶ荷物箱)を運ぶ以外に有効な運送手段を使えなかった道、ということのようだ。

「野」について

野と呼ばれるのは、比較的平らだが小高く、水がかりが悪く耕地(特に水田)に不向きであるため、雑木林や竹林になっていたところが多かった。しかし小高いところに限定せず、川の合流地点付近の広大な低湿地も、未開拓で鳥や小動物が多く、野として歴史に現れることがあったという。

面白いのは「吉野山」のように「地名がズレた」例も存在するということ。

「日下」について

苗字としても散見される「日下」は当然「くさか」と読むが、なぜ「日」で「くさ」と読めるのか筆者は答えている。

すなわち「日」は「草」を簡略化した字であって、この記法が『古事記』でも使われていたため現代に伝わっているのだという。

「走水」について

神奈川県横須賀市走水はしりみずの由来についても多少触れられていた。

「亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。」(このサイトを参照、『日本書紀』)

メモ者がおおざっぱにまとめると「相模から上総に立跳で渡ろうとしたが、渡っている途中に暴風に襲われた。そこで弟橘媛おとたちばなひめが『船が沈むのは海神のせいなので、私が命を差し出して(神に捧げましょう)』と述べ、海に入ってしまった。すると暴風が止み、岸までたどり着けた。そこでその海を『馳水はしるみず』と呼んだ。」とのことだ。

「筋」について

大阪では南北の道を筋と呼び、東西の道を通りと呼ぶが、筆者曰く「正しくは町通り」であるという。 また「筋」と呼ばれる理由については「東西道路は家が間口を開けているメインストリート=町通りであるのに対し、南北の道は家々の横壁や塀が続くだけの通過専用横丁だったから」と述べている。

出てきた難読

膳所ぜぜ藩:「近江国滋賀郡膳所膳所城(現在の滋賀県大津市)に藩庁を置いた藩」(Wikipedia

三重県伊賀市坂之下国町こくっちょ

繖山きぬがさやま

乙訓おとくに

簸川ひのかわ寺:「斐伊川神戸川による沖積平野」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)